佃  島


( 東京都中央区佃  平成26年7月20日 )

 天正10年(1582年)明智光秀が織田信長を襲ったとき、信長の盟友徳川家康は堺にいた。危険を察知した家康は大阪へ向かい神崎川にさしかかった。船がなくて困っていた家康一行に漁船を集めてきたのが摂津国佃村(現大阪市西淀川区佃町)の漁民であった。漁民の働きは家康にとって生涯忘れられないものとなった。

 慶長8年(1603年)家康が江戸幕府を開いたとき、家康は佃村の漁民を江戸に呼び、石川島に近い島を居住地として与え、故郷の佃村に因み「佃島」と名付けた。
 彼らはここで白魚などの漁をしながら江戸城内の台所を賄うことで漁業権を与えられた。






佃島渡船場跡
佃島と隅田川で隔てた対岸の船松町(佃大橋の西詰付近)との間に、正保2年(1645年)から佃大橋が開通する昭和39年まで約300年の間、渡し船が通っていた渡船場の跡。
最盛期の昭和30年には1日に70往復が運行されていた。
対岸の船松町にも同じ碑がある。


 佃島は離れ小島であるため、時化(しけ)どきにはお菜に事欠き、また漁期には腐らない副食物が必要なことから湾内で獲った小魚類を塩辛く煮込んで保存食を作ることを考えた。
 その後、千葉から醤油が渡り塩煮から醤油煮に変わり佃島で作られたので佃煮と名付けられた。以来170年、天安は天保8年の創業以来その味を引き継いでいる。

 



 佃小橋の手前、住宅と住宅の間に挟まれた人一人が通れる細い路地を入って行くと路地の中ほどにお地蔵さんが祀られている。ここは寺院でもなく、地蔵堂があるわけでもない。佃天台地蔵尊には、天台地蔵比丘妙運の刻銘があり、幼くして世を去ったこどもを慰霊するもので、佃島に暮らす人々が、代々これを守って今日に伝えてきたと言われている。

    






佃天台地蔵尊の近くにこんなものがありました。未だ現役です。




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